投稿日時:2015/11/13
白岡市観光協会 第9回親睦研修旅行を開催
昨年の6月に国内では18例目の世界遺産に登録された、群馬県富岡市にある富岡製糸場を見学しました。バス3台で総勢143名でした。見学して一番に感じたことは、この様な木とレンガの建物を、フランス人の技師ポール・ブリュナに明治5年(1872)に建設してもらい以来140年以上にも亘り維持し存続させて来た先人の情熱と努力でした。
この当時、世界が何故日本に生糸の大量生産を求めたのかわかりました。一つは、ヨーロッパで「微粒子病(びりゅしびょう)」という蚕の病気が大流行して蚕の約8割が死に、深刻な品不足に陥ってからです。もう一つは、生糸の生産大国であった清国が、アヘン戦争(1840)などの動乱で生産能力を失って居たからです。その後、日本はこの富岡製糸場を始めとした各地の製糸場の生産力により、明治42年(1909)には生糸の輸出量が世界一になって行くのです。
白岡に篠津中学校前の赤池橋の近くに「庄兵衛堰枠」という歴史遺産があります。これはレンガ99
00個使用した堰枠ですが、10年前このレンガから「上敷免(じょうしきめん)」という刻印が発見され、これが近代日本経済の父といわれた渋沢栄一が明治20年(1887)に設立した深谷の日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の製品であることがわかりました。このレンガは、東京駅・日本銀行旧館・赤坂離宮・碓氷峠の鉄道施設・神田の万世橋高架橋などに使用されたレンガと同じことから、「庄兵衛堰枠」は日本史につながり一躍注目される様になりました。
本日、訪れてここのレンガは、深谷の瓦職人の手によりブリュナの指導のもと開発されたそうです。その後その技術が渋沢栄一の手により改良が加えられ深谷の日本煉瓦製造株式会社に引き継がれ、そのレンガ明治時代の日本各地の建物や構造物に使用された訳であります。ですから、白岡もこの様にレンガを通して富岡製糸場につながって居ることがわかりました。歴史をひも解くことは実に楽しく面白いものだと感じました。
また、この富岡製糸場の建設にあたり埼玉県人が少なからず貢献していることもわかりました。この富岡製糸場の初代工場長は、尾高惇忠(じゅんちゅう、あつただ)です。この方は、渋沢栄一の10才年上の従弟で、栄一に論語を教えたことでも有名です。そして、惇忠の妹千代は栄一の妻でもあります。また、この建設に当たっては、栄一が建設設置主任を務めています。
平日とはいえ、多くの人々が来場していた富岡製糸場見学の後とは、昼食のため横川にある釜飯で有名な「横川おぎのや」に向かいました。昼食後は、仏事がありましたので、皆様と別れ白岡に向かいました。