投稿日時:2019/11/1
見沼代用水土地改良区理事会
本日は、見沼代用水土地改良区理事会が開催されました。議案としては、平成30年度決算(一般会計及び特別会計)について、財務状況の公表について、滞納整理臨宅徴収の実施について、土地改良法の改正に伴う定款・規約の変更及び規程の新設にかかる基本事項についてでしたが、慎重審議のうえ全ての議案が可決されました。
また、見沼代用水が、9月4日にインドネシアで開催された国際かんがい排水委員会の国際執行理事会において、世界かんがい施設遺産に登録されたことの報告がありました。見沼土地改良区では、これを記念しての行事や他機関との共催、啓発・PR品の作成等について検討しているとのことでした。市でも埼玉県内で初めて世界かんがい施設遺産に登録されたこともあり、広報しらおか11月号で、市民の皆さんにお知らせいたします。
江戸時代初期、現在の越谷付近で利根川と荒川が合流していたことから、埼玉県東部地区は度々氾濫を繰り返していました。そのため、この利根川と荒川の流れを別にする工事が関東郡代伊奈忠治により寛永6年(1629)に行われました。これは、熊谷市久下(くげ)で荒川を切り離し、入間川の川筋に瀬替して今の荒川としました。そのため、本流の荒川は現在の元荒川となりました。そのため、今のさいたま市の村々は水不足が生じたので、見沼の最南端部に八丁堤をつくり見沼を堰き止め「見沼溜井」とし、その水を近隣の村々に供給しました。
そして、時代がたち八代将軍吉宗の時、享保11年(1726)から享保12年(1727)かけてこの「見沼溜井」を干拓し新田開発が行われました。そのため、「見沼溜井」の水を利用していた村々に、これに代わる水を供給するため「見沼代用水」が開削されました。これは、井澤弥惣兵衛為永により享保12年(1727)秋から享保13年(1728)春までの短期間で工事が行われ、利根川の元圦から直線距離で60km、総延長80kmを半年という短工期で完成させたところが、現在でも高く評価されているところです。それから約300年間が経過した今でも、白岡の農業は「見沼代用水」の恩恵を受けているのです。